トップオブヒエラルキーに、俺はなる!(なりません)

 今回は、世のヒエラルキーについて。


世の中には、ヒエラルキーという階層制が、目に見えない形で多くある。


私は大学時代、ダンスサークルに所属していたが、そこがヒエラルキーの巣窟のような場所だった。

マンモスサークルで、人数は多かったが、

 キラキラ(いわゆる陽キャラ)ヒエラルキー

 容姿ヒエラルキー

 ダンスのうまさヒエラルキー etc

日々水面下で自分の立ち位置を少しでも上げようとする人たちの集まりだった。


私は、サークルのヒエラルキーにおいて最下層に位置していた。争いには出来るだけ関わらず、1番下でいいのでそっとしておいてください……というスタンスで4年間を過ごしたが、それが故にも踏み台として使われることも多く、それなりに不愉快な思いもしてきた。


(友人から、なぜそんなサークルに入ってるのかと言われたが、それはひとえに、ダンスへの愛と、舞台から自分たちで作って踊れるサークルがそこだけだった、という理由だけだ。)


自分を上げるために、後輩の前で執拗に指導されたり、(指導してくる子は、後輩への教え方が分かりにくい と言う内容で私を責めていた。本当に指導内容が悪かったとしても、後輩の目の前で大声で指摘する必要はなく、私が逆の立場なら、後で伝えるくらいの配慮はする……)

キラキラした先輩には飛びつくのに、私には挨拶もしない後輩だったり、

余興で汚れ役を押し付けられたり、

ヒエラルキーに興味がないのに、巻き込まれて不愉快な思いをさせられるのは全くもって納得いかなかった。


そんなサークルメンバーも卒業し、結婚するメンバーが増えたのでたまにはいいかと思い、集まりに顔を出したりもしたが、全くもって本質は変わっておらず、何をもってマウントを取るか、どういう属性のヒエラルキーか という違いだけだったので、もう会うことはないだろう。

ちなみに、今のヒエラルキーは、旦那、子供である。

自分たちの土俵で戦っているのはさぞ気分が良かろうな……(独身のひがみ含む)


社会人になって、居たくないコミュニティにいる必要はなくなったし、意味のないヒエラルキー争いに悩まされることも少なくなった。

こう書くと、ヒエラルキーに全く興味のない悟りを開いた高尚な人間っぽく聞こえるが、そういうことでもない。


超不本意ながら、私が今人生で1番注力しているのは仕事だが、仕事のおいてのヒエラルキーは、上の方に位置していたい。

そのために他人を利用したり、不愉快な思いをさせようという気持ちは微塵もないが、私がどう振舞おうとも、どうしても「仕事を回すのが上手いか」「頭の回転が速いか」などでヒエラルキーは自然と出来てしまい、巻き込まれる形となる。


その時に、最下層でいいとは全く思わないし、できれば他人から評価されたいと思っている。


所詮は他人と比較することでしか、自分の価値を確かめられないという意味では、ダンスサークルのみんなと大きく変わりはないし、私も知らず知らずのうちに、人に不愉快な思いをさせているかもしれない。

ダンスサークルの彼女たちも悪気はなかっただろう。自然とマウントをとっていただけで、貶めてやろうとは思っていなかったはずだ。(たぶん…多分)


こう考えると、人間レベルとしては、彼女たちと私は同じ階層にいて、どこの土俵で戦っているかの違いだけな気もしてくる。


ちなみに、階層制には「ヒエラルキー」と「カースト」という2つの言葉があるが、

努力次第で変えられるのは「ヒエラルキー」、変えられない階層制は「カースト」というらしい。

世界史で習った バラモン/クシャトリヤ/ヴァイシャ/シュードラ は「カースト」で、生まれながらの身分なので変えられない。いまだに、インドではこのカースト制度が根強く残っているらしい。

比較的身分制度のゆるいこの国に生まれたことを感謝しようと思う。

(めっちゃ社会派の記事になった。高尚!頭よさそう!いい感じ!)


作成時間:30分+下書き1週間

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